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7 Generations Walk for Peace 3月8日 東京断食祈願ウォーク 一日目報告
7 Generations Walk for Peace 3月8日 東京断食祈願ウォーク 一日目報告

お陰さまで無事に3月10日に7 Generations Walk for Peaceは無事に終了しました。
ありがとうございました。
(3月10日 宗教宗派を越えた祈りの会にて)

ウォーク中は時間にも限りがあり、学んだことをなかなかシェア出来なかったので、これから、少しづつ報告ブログをアップしていきながらまとめつつシェアしていきたいです。
皆さんと、戦争の知識を深め、平和への思いを確認していけたらと思っています。
よろしくお願いします。

今回のウォークの最後3日間は断食して祈りながらのウォークでした。
「何故、断食なのか?」
と聞かれたことがありました。

「命の問題なので、命を捧げて祈りたいのです」
というふうに私は思い、今回の断食祈願を企画しましたと答えています。

今、日本は戦争が再び出来る国になりかねない風潮があります。

戦争とはなんなのか?
体験者に聞くのが一番だと思います。
「百聞は一見に如かず」
体験は一見に勝るでしょう。
しかも、私たちの視点での戦争を学ぶことが大切です。

為政者は戦争のとき人を駒のように扱う事が多くあります。
私は、人として、庶民の視点で戦争とはなんなのか?を学ぶべきなのだと思っています。

日本の戦争だけでなく、
今までも、イラク帰還米兵のアッシュさんにもお話を聞いたり、
アメリカ横断中にも元アメリカ軍人のお話も沢山聞きました。

「戦争は残酷だ」
皆がそう言います。


そして、
原発事故のことも、チェルノブイリ事故の体験者に聞くべきでしょう。
今でも、ベラルーシやウクライナでは障害を持って生まれてくる子供や癌にかかる人たちが本当に多いのです。

日本の対応は?

戦争も放射能も、受け入れ切れないような辛い事実を学ばなければ
本当の意味での平和な未来への活動は出来ないのかもしれません。

皆も知っていることだし
すでに実践していることですね。
これからも、もっと、深く学び
視点とマインドをさらにクリアーにして
私たちのワの繋がりを強めていきましょう。

僕たちも祈り、発言し、行動します。

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3月8日
朝、江東区の西大島駅に集合しました。
そして、駅近くの羅漢寺さんにお参りしました。
実はこのお寺にも
東京大空襲の時、1036人の方の遺体が仮埋葬されています。
この辺りも焼けたのです。
お参りして、断食ウォークをスタートしました。



1945年3月10日午前12時7分に下町を中心に空襲がはじまり
約2時間半の爆撃で約10万人が犠牲になり、現在の23区の3分の1を焼き尽くしたのです。

数字的にも大惨事!なのですが、その爆弾の下、炎の中で人々はどしていたのだろう?
地獄のような苦しみ?!とか聞くこともありますが
そんな言葉では表現しきれない、人の思いや、悲しみや、苦しみには
一体なんの意味があったのだろう?
想像しただけでもやりきれません。



そんな庶民の視点で戦争の事を伝えてくださっている
「東京大空襲・戦災資料センター」
http://www.tokyo-sensai.net/
に行きました。

この資料センターは有志の募金で作られた「戦争の事実を伝えたい」
という人々のあつい思いがつまった施設です。
まさに、私たちの知るべきことがここに詰まっていました。

スタッフの皆さんボランティアなのか、とても心あたたかに迎えて下さいます。
平和への思いが溢れているからなのだと感じました。

始めに映像を見せていただきます。
東京大空襲のドキュメンタリーです。

空襲の概要が実際の映像と共に良く分かります。
びっくりしたのは
東京大空襲を指揮した
米軍の指揮官のカーチスルメイ氏に日本が勲章をあげていることです。
何故なのだろう?

それから
語り部の二瓶治代さんに東京大空襲の体験談をお話いただきました。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

二瓶さんのお話(青)

二瓶さんはその当時八歳。
江東区亀戸在住。
1945年3月9日は強風だった。

その日まで、子供たちは皆戦争ごっこをしたり、看護婦さんごっこをして遊んでいた。
そして、突然、爆弾は落ちてきた。
昨日まで普通に会っていた友達の多くも死に、家も町も全部焼けてしまう。

未明の爆撃による、大火事の中を家族四人で逃げまどった。
最初は防空壕に入っていたけれども、そこから出て逃げたのだが、防空壕に残った人たちは皆亡くなった。


本当に究極の選択の連続ですね。



逃げている間も、着ている服や荷物に火が燃え移り、焼け死んでいく人を沢山見た。

消防士さんたちは、火が強すぎて水があまり出ないが、持ち場を離れることができず(規則なのか?)
多くの人が持ち場で立ったまま焼け死んでいった。

荷物を引いている馬が立ち往生してしまい動かなくなって、立ったまま焼けていっていた。
荷物にも火がまわり、御者の人もそのまま、そこで一緒に燃えて死んでいった。

二瓶さんも防空頭巾に火がついたので取ろうとしたときに、風にあおられて家族とはぐれてしまった。
そのまま、逃げ惑っていると、広場で立ったまま燃えている人に出会った。
助けようとしたが、燃えている人が手を上げて、こっちに来るな!と言った。
手からは青白い炎が出ていた。

そのとき、腕を強くひっぱる人がいた。
あまりの炎と突風でその人がだれかも分からず、引きづられるようにして逃げた。
逃げる途中も「お父さんなの?お父さんなの?」と二瓶さんは叫んでいた。

駅近くで、その人が二瓶さんを抱きかかえるようにしてうずくまった。
そして、その上に人がどんどん折り重なってきた(人の習性か?そんな時は人は折り重なるように集まるのだそうです)
あまりの重圧に二瓶さんは気を失った。

そして、朝になり、自然に火事はおさまり、目がさめた。
二瓶さんを抱きかかえてくれていたのは実はお父さんだったことにその時気づいた。
しかし、その上に折り重なった人たちのほとんどは焼け死んで真っ黒になっていた。
その人たちの下にいたお陰で、二瓶さん達は生き残ったのだ。
黒焦げになった人たちをみて
「こんなになっちゃった」と二瓶さんはつぶやいたそうです。

二瓶さんの家族は幸いにも皆死なずに再会できた。
ご両親も顔が火ぶくれで目が見えないので、子供の二瓶さんが手を引いて避難した。



町を歩くと、町中に焼死体が溢れていた。
皆、子供を抱いて死んでいた。親子一緒に焼け死んだのです。
大きな死体のそばには小さな死体が寄り添っていたのが印象的です。

妹さんはその時に足に大火傷を負った。
その後、蛆虫が足から湧き、母が箸でその蛆虫をとっていた。
母が「ゴメンネ、ゴメンネ」というと
妹さんは「母さんのせいじゃないよ。アメリカがやったんだ」
と答えていたそうです。

あちこちを避難して転々としたそうですが、差別もたくさんあった。
辛い日々が、空襲の後も続いた。



病院がやっと見つかったので妹を見せにいった。
凄く長い時間待って、やっと診療の番が回ってきたら「油はもっているか?」
と聞かれた。「持っていない」と答えると、「ならば診療はできない」
と断られた。土下座をして頼んでもだめだった。
その時に、その姿をみかねた見ず知らずの人が、自分の分の油を分けてくれた。
そして、その油を患部にぬり、妹さんは助かった。
その時は治療といっても油を患部に塗るだけ。そうすると悪い部分が浮き上がり、再生するのだ。
妹さんの足は今でもえぐれたようになっているが、元気にくらしているそうです。


戦後69年が経とうとしている。

戦争をしない誓いが揺るごうとしているが、なんとか乗り切りたい。

戦争をしたら終わりだ。戦争は人を殺すだけ。

人の思いが戦争を止める。
やさしさが人を救い、平和を構築していける。


以上 二瓶さんのお話

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
二瓶さんの戦争体験のお話は本当に鮮烈でした。
怖かったし、悲しかった。
死に方の中で、焼け死ぬのが一番辛いと聞いています。
親が子供を抱いたまま焼け死ぬ思いを想像すると、
なんともやりきれないです。

センターには大空襲直後に死体溢れる町並みを記録した写真が展示してあります。
その事実を伝えるために。
それらの写真は石川光陽氏が後世に戦争の事実を伝える為に当時は禁止されていたにもかかわらず必死で撮影したものです。
GHQからもネガを守り私達に伝えられています。
こちらのHPでも写真が見れます(閲覧注意)

そのとき雨のように降ってきたと言われる焼夷弾の実物と模型

これが結構重い!
こんなものが雨のように降ってくるなんて!
直撃して、脳が飛び出してしまった人もいたそうです。



「戦争」
その実態を少しまた知ることができました。
二瓶さん、センターの皆さん本当にありがとうございます。
平和にきっと活かしていきます。

それから歩いて近くの
猿江公園に行きました。
綺麗で広くて良い公園ですが
大空襲の時は
13242人の方の遺体が仮埋葬されました。
今は碑も残っておらず、地元の人も知る人は少ないかもしれません。
皆で輪になり祈りをささげさせて頂きました。

歩いて菊川周辺を通ります。
この川も当時遺体であふれました。

今の町は綺麗に整備され、分からなくなっていますが、
当時のことに思いを馳せ祈りながら歩きました。

両国の
都立慰霊堂へ
この慰霊堂には
仮埋葬され火葬されたお骨が集められ安置されています。

心を込めてお祈りしました。


厩橋のたもとにある仏様に手を合わせます。
センターにもこの橋で多くの人が亡くなった様子を表す絵が展示してありました。

墨田川を遡ります。

浅草周辺
この辺りでも、本当に多くの方が亡くなりました。

墨田公園へ
春なのでお花が沢山咲いて綺麗です。
この公園でも6374人の方の遺体が仮埋葬されていました。
東京大空襲で犠牲になった方々の数が凄く多くて驚きます。
その地を巡ってみると、そんなに広くない範囲ですさまじい数の人がなくなった
ことを実感します。

公園のすぐ側にある牛島神社にお参りしました。


祈るしかない気分になります。

スカイツリーを見ながらさらに歩きます。


すみだ郷土文化資料館へ

この資料館には大空襲の体験画が常設展示されています。
その時の惨状を伝えたい!という気持ちがこもったこの絵は生々しく、
すごく伝わるものがあります。
是非、展覧していただきたい資料です。

皆で資料館の中に入ると
偶然にもその絵の一枚を書いた、坂元さんと出会いました。

坂本さんの書いた絵は
空襲の後、焼け死んだ人の遺体が防火用水の中で白骨になっていた場面のものでした。
よっぽど火が強かったのでしょう。
鮮烈な記憶が忘れられないそうです。

色々なお話をしていただきました。
空襲の後、一週間後に召集令状が来て
満州に行き、その後にロシアにだまされるような形でシベリアに連れて行かれ、
3年間抑留されたそうです。
マイナス数十度の世界を生き抜いてこられた体験は壮絶でした。
シベリアには約50万人が抑留され、五万人が亡くなっています。
偶然とはいえ、坂元さんと出会い、直接お話が聞けたのはとても有難いことでした。

言問橋を渡り、浅草方面へ
空襲の時は、この両岸から火の手があがり、両側から押し寄せた人が橋の上で動けなくなってしまったそうです。
そして、持っていた荷物や服に火が移り、橋の上は火の海になってしまったそうです。
橋の上で焼け死ぬ人、たまらず川に飛び込んだ人は、溺れたり、凍死したりしてしまったそうです。
壮絶な橋の上の地獄。
約5000人が亡くなったのだそうです。

普通の橋に見えますが、69年前は悲惨な悲劇の橋です。
渡りきったところに供養の碑があります。

皆で心を込めてお祈りしました。




浅草寺へ

浅草寺さんも空襲のとき
本堂を含む殆ど全ての建物が焼けてしまいました。

ご供養のお地蔵さんや
平和祈願塔が境内に建立してあります。

ご住職に、色々とお話をいただき説明をしていただきました。

空襲の時に焼け残ったイチョウの木です。
裏側は真っ黒になってしまっていても、まだ生きています。
ご神木として祭られています。

一日の最後に観音様にお祈りをして
なくなった方々の冥福をお祈りしました。

門のところに大きなわらじ。
これに触れると健脚になれるという逸話もあり
皆で触れて、明日からの祈りの歩みも健やかであるようにお祈りしました。

今日は学び多く、
そして、重い事実を知り
とてもシリアスな祈りの日になりました。

戦争は残酷極まりなく
その体験者の悲しみははかりしれない。

平和を全てをかけて祈らなければならないと思いました。

ホーミタクエオヤシン

山田拝






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