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Rainbow Walk for Aso 10月3日 星野村 原爆の火 採火セレモニー

Rainbow Walk for Aso 10月3日 星野村 原爆の火 採火セレモニー

http://blog.7gwalk.org/?eid=1262608

 

星野村の平和広場に集まり

原爆の火に向かい、皆で祈りを捧げました。

先ずは原爆で犠牲になった方々の魂にご供養の祈りを捧げました。

あなた達のことを忘れませんと誓い

その記憶と共に歩ければと願いました。

 

今回のウォークのコンセプト

「母なる地球の声に耳を澄まそう」

のメッセージをシェアしました。

原爆の原料であるウランをネイティブは母なる地球の内臓と言います。

その内臓を掘り出せてしまった、人間の心に

原爆の原因の第一歩目があると感じています。

 

私達が母なる地球と繋がりなおし

その悲劇の原因を一つづつ、解決していくことが大切と感じています。

村役場の方にお願いして

原爆の火を採火させていただきました。

この火と共に阿蘇まで歩かせていただきます。

 

 

採火させていただいてから、

原爆の火を広島から、この星野村に持って帰り

家に灯していた、山本達夫さんの息子さんの山本拓道さんにお話を伺いました。

 

以下、山本拓道氏にお話いただいたことの部分的書きおこしです。

 

皆さんが目の前にしているこの火は原爆の残り火です。

この火によって、何万人もの人がもだえ死にました。

ここ何十年もこの原爆の火を平和の火として見てきました。

 

最近ではたまに、小学生にお話したりすると

「この火をみていれば平和になる」という勘違いをする子もいます。

「平和」ということが分からなくなってきてしまっています。

この火の事実を現実として捉え「何が自分に出来るだろうか?」という所まで持っていきたいです。

 

何故、父 達夫さんは原爆の火を持ち帰ったのか?

 

父は昭和20年の8月6日 広島で被爆しましたが、生き残りました。

(お父様の達夫さんのお写真)

 

父は軍人で軍曹でしたので、直後に広島市内に入り、死体の整理や復旧の仕事をしていました。

原爆落下直後の広島の状態は悲惨なものでした。

皮膚がとけてぶら下がってしまっている人、まっくろに皮膚がやけただれ男か女か?人かどうか?も分からないほど火傷をしてしまっている人達。その人達の中を歩いていると、軍人の達夫さんを見て、多くの人が、「助けてくれ〜水をくれ〜」といってすがりついて来たそうです。しかし、水を与えようとしても、一滴も飲めないまま死んでいく人も多くいたそうです。何人もの人が達夫さんの腕に抱かれながらその場で死んでいったそうです。そして、多くの犠牲になった人が「この怨みをはらしてくれ!」「仇を必ずとってくれ!」と遺言を残して死んでいきました。達夫さんは「必ず仇をとる!」と強く思ったそうです。

 

そして、原爆ドームの近くで本屋をしていた叔父を探しにいきました。

(叔父の山本やすけさんのお写真)

当時、達夫さんにとってやすおさんは父代わりの存在でとても慕っていました。

しかし、おじさんの本屋さんに行って、おじさんを探したのですが、爆心地に近すぎて何も見つからず困ってしまいました。

そこで、おばあちゃんが出征の時にくれて御守り代わりに持っていたカイロに原爆の残り火を入れて、遺骨の代わりとして、故郷の福岡県の星野村まで持ち帰ることにしました。

 

そして、その原爆の火を、叔父やすおさんの遺骨の代わりにして葬儀を行いました。

葬儀の後も、その火は山本家の仏壇や火鉢の中で燃やされ続けました。

母やおばあちゃんにとって、叔父さんのことを思いだし、ご供養を続ける為の火になりました。

 

しかし、父は、その火を見るたびに、あの8月6日の悲惨な事実を思い出してしまうのです。

あの恨みや、惨たらしく死んでいった人達のこと、仇をうつといったことも思いだします。

戦後、日本がアメリカに追従するような形で復興していく中、

父はその恨みの念と共にあり、苦しみました。この原爆の火は父にとってまさに

怨みの火」だったのです。

そして、昭和41年にひょんな事から、父の思いと、原爆の火のことが新聞に取り上げられ、この火は全国的に注目されることになりました。そして、沢山の人が取材にきたりして、大変忙しい毎日をおくることになりました。

昭和43年に、星野村が村としてこの火を灯して、原爆の犠牲者のご供養と、平和祈願のために管理することになりました。

その提案が来た時は、父は直ぐに承諾しました。

 

しかし

父の思いは複雑でした。

父にとっては「怨みの火」なのですが、

公には「平和の火」として認識されていく。

その意識のずれにも苦しみました。

 

そして、父はこの火を見続けました。

そんな中で怨みばかりでは身がもたないことを知りましたし

戦争や原爆を二度と繰り返してはいけない!と心から思うようになりました。

もちろん、そう思い始めてからも、葛藤は続き、「怨み」と「平和」が同時にあり苦しみは続きました。

 

この原爆の火を見るときに、そんな人達の思いを忘れると、この火の意味が上滑りするように思うのです。

 

原爆の火が、なぜ平和の火と言えるのか?そのことを各自が本気で考えなければなりません。

 

そして、父は原爆症に苦しみ、そんな複雑な思いをかかえながら88才まで生きました。

父が死ぬ時にいった言葉は

「人間同士が殺し合うようなおろかな事は、もうそろそろ やめなければならない」

でした。

 

父は生前、学生達にお話した時に言っていました。

「平和の火はいつ何処で消えてしまうか分かりません。でも、今あなた達の心に灯った火は消さないで欲しい」

 

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拓道さん、ホントに心から沢山のことをお話して下さいました。

もっと、色んな事をお話いただき、内容が濃く心に直接訴えるものがありました。

今回は抜粋してお伝えしましたが、このメッセージを自分達の中で深く受け止めつつ

この火と共に阿蘇まで歩いていきます。

 

夜は皆で

原爆の火を奉り

パイプセレモニーをして

祈りを捧げました。

 

皆の中にもこの平和の火が灯ったように感じています。

「何故、この原爆の火が、平和の火と言えるのか?」

この深い問いかけにも

一歩一歩母なる地球と繋がりながら歩く中で答えを見出していけたらと思っています。

 

どうぞよろしくお願いします。

 

ホーミタクエオヤシン

 

山田拝

 

 

 

 

 

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